朝、鏡を見たら髪が片側だけ跳ねていた——という日、ありませんか。
そこで多くの人がやることは、たぶん同じです。水で濡らして、押さえる。
不思議なのは、それで直ってしまうことです。切ってもいない、貼ってもいない、薬もつけていない。ただ水をかけただけで、髪は言うことを聞きます。
——あれは、ある元素のしわざです。
案内役は、周期表のいちばん左上、特等席にすわっている元素——水素(H)です。
出席番号1番の理由
周期表を開くと、水素はいちばん最初に出てきます。理由はとても単純で、宇宙でいちばん軽いからです。水素より軽い物質は存在しません。原子核は陽子がたった1個、そのまわりを電子が1個まわっているだけ。これ以上簡単な原子は、作りようがないのです。
そしてもうひとつ、水素には圧倒的な特徴があります。宇宙でいちばん多いのです。
どれくらい多いのか。点を100個ならべて見てみましょう。
バケツ一杯の星をすくうと、中身はほとんど水素
点 100 個が、宇宙にある原子 100 個ぶんです。下の札にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その仲間だけが残ります。
0.1 個その他ぜんぶ。100 個では1 個も出てきません。点 1 個にするには、1000 個ならべる必要があります。
個数の比です。重さで比べると水素 74 %・ヘリウム 25 %・その他 1 % ほどになります(原子 1 個の重さが元素ごとに違うためです)。Lodders (2003)、Asplund et al. (2009) による概数。
宇宙にある原子を100個すくってくると、92個が水素。8個がヘリウムです。そして、それで終わりです。残りが出てきません。
炭素も、酸素も、鉄も、金も、あなたの体を作っているすべての元素を合わせても、この100個の中には1個も顔を出しません。点を1個ぶん確保するには、1000個すくってくる必要があります。
正体を見きわめたのは、人と話すのが怖い男でした
この気体の正体を最初に見きわめたのは、18世紀ロンドンのヘンリー・キャベンディッシュという人です。
のちにイギリス有数の資産家となる人ですが、この頃はまだ、父から切りつめた手当をもらうだけの身でした。そして、人と話すことが極端に苦手でした。家の女中とは顔を合わせず、用件は書き置きでやりとりしたと伝えられています。王立協会の会合と晩餐にはほとんど欠かさず顔を出したのに、話しかけられるとそっとその場を離れてしまったといいます。
その男が、1766年に報告を出します。金属に酸をかけると、シューッと軽い気体が出てくる。火を近づけると、ポンと音を立てて燃える。
じつは、この気体が出ること自体は100年ほど前から知られていました。キャベンディッシュがやったのは、その重さまで測って、ほかのどの空気とも違うひとつの物質だと突き止めたことです。彼はそれを「燃える空気」と呼びました。
そして15年後、彼はもっと妙なことに気づきます。その気体を燃やしたあと、容器の内側に水滴がついているのです。
すすでも灰でもなく、水。
人づきあいの苦手な男が自宅の実験室で突き止めたその気体こそ、宇宙でいちばんありふれた物質でした。ただし彼自身は、それを「元素」だとは考えていません。当時はまだ、燃焼を説明する理論そのものが違っていたのです。
なお、この「燃やすと水ができる」の手柄をめぐっては、蒸気機関のジェームズ・ワット、そして次に登場するラボアジエとのあいだで、誰が最初かの論争が起きました。「水の論争」と呼ばれ、当事者が世を去るまで決着しませんでした。科学の発見は、教科書に載るときほど一本道ではないのです。
その意味を読み替えた人は、海の向こうにいました。
水と火は、反対ではありません
パリの徴税請負人、アントワーヌ・ラボアジエ。この気体に名前を与えたのは彼です。
選んだ名は、ハイドロゲン(hydrogen)——ギリシャ語で「水(hydro)を作るもの(gen)」。1780年代半ば、水を分解し、また合成してみせる実験のなかで提案した呼び名でした。そして1787年、ギトン・ド・モルヴォーやベルトレたちと編んだ新しい命名法の中で、この名が正式に定まります。日本語の「水素」も、この意味をそのまま漢字にしたものです。
火を消すはずの水を、燃える気体の名前にする。ずいぶん思い切った命名です。
水と火は、反対ではありません
同じ材料の「はげしく踊っている姿」と「落ち着いた姿」です。左右の箱にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
はげしく踊っている姿 = 火
水素と酸素が、ばらばらのまま飛び回っている
286 kJ の熱が出る
同じだけのエネルギーが要る
落ち着いた姿 = 水
水素と酸素が結びついて、ひとつの分子になっている
水を電気で分解すると水素が生まれ、その水素を燃やすとまた水に戻ります。火と水は、この輪の別々の場面にすぎません。
286 kJ/mol は水素 1 mol あたりの高位発熱量(25 ℃、生じる水が液体のとき)。実際の電気分解では熱の出入りがあるため、必要な電気エネルギーは 237 kJ/mol、残りは周囲からの熱でまかなわれます。
けれど、これは正確でした。水素を酸素とはげしく反応させる——燃やす——と、あとに残るのは水だけです。逆に、水に電気を流して分解すれば、水素が戻ってきます。行ったり来たりできるのです。
つまり、こういうことです。
はげしく踊れば火になり、落ち着けば水になる。
火と水は正反対のものではなく、水素という同じ主人公の、二つの姿にすぎませんでした。
「水素はすごい、無限のエネルギーだ」と言われることがありますが、それは正しくありません。
水素を燃やすと熱が出ます。しかし水を分解して水素に戻すには、出したのと同じだけのエネルギーを入れなければなりません。水素はエネルギーを生み出す魔法ではなく、エネルギーを運んだり、ためたりする入れ物です。この点は、あとで燃料電池の話にもつながります。
なお、その命名法を世に出した7年後。ラボアジエは革命裁判にかけられ、断頭台で処刑されました。科学ではなく、徴税請負人という肩書きが仇になったのです。翌日、数学者ラグランジュがこう言ったと伝えられています。
「彼の頭を切り落とすのは一瞬だ。だが、あれほどの頭脳がもう一度現れるには、100年かかるだろう。」
中途半端であることの、強さ
ノートを雨に濡らしてしまったこと、ありませんか。
濡れた紙は、指でこすっただけで毛羽立って、簡単に破れます。ところが乾かすと——ゴワゴワにはなりますが——また一枚の紙に戻ります。
——あれは、水素のしわざです。
ここで、ひとつ意外なことをお伝えします。紙の繊維を貼り合わせているのは、のりではありません。 細い繊維が積み重なって、繊維どうしが直接くっついているだけです。接着剤は、どこにも入っていません。
では、あの薄い一枚は何に支えられているのか。繊維どうしを留めているものがあるのです。それは水をかけるとほどけ、乾くとまた結び直される。濡れた紙が弱くなり、乾かすと戻るのは、そのためです。
(水に濡らしても平気な紙もあります。あちらは樹脂を混ぜたりフィルムを貼ったりして、水が繊維にふれないようにしたものです。)
この「留め金」の正体が、水素結合です。
どのくらい弱いのか
水素は、電子をたった1個しか持っていません。その1個が相手の原子に引っぱられると——中から何も出てこない。隠すものが、何もないのです。
その結果、水素はこんな性質を持つことになりました。中途半端に、弱くくっつく。
握手にたとえてみます。水の分子そのものを作っている結びつきが、コンクリートで固めた握手だとすれば、水素結合はせいぜい小指をからめた程度です。
ここから先は、数字で見たほうが早い。
水素結合は「ちょうどいい弱さ」
結びつきの強さを一本の数直線に並べました。丸にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
同じ4つを、握手の深さに置き換えると
固めた握手
からめた握手
叩かれる程度
ワールス力 約 1
触れただけ
共有結合の 463 kJ/mol は O–H の平均結合エンタルピーです(水の 1 本目 497、2 本目 426 の平均。値は Luo (2007) による)。水素結合は水の O–H···O の代表値(文献値 15–25 kJ/mol)。体温の熱エネルギーは RT(気体定数 × 300 K)。
結びつきの強さは kJ/mol という単位ではかります。その結びつきを引きはがすのに、どれだけの力が要るか——さしあたり、それだけの意味だと思ってください。
水の分子を作っている結びつき(共有結合)が 463。水素結合は約 20。23分の1です。ずいぶん弱い。
——けれど、話はここからです。
私たちの体温が分子をゆさぶる力は、同じ単位で 2.5 ほど。水素結合は、その8倍あります。
この位置が、絶妙なのです。
- これより弱ければ、体温だけで勝手にほどけてしまう
- これより強ければ、一度くっついたら二度と離れない
放っておけば離れない。けれど、その気になれば離せる。
濡れた紙が乾いて戻るのも、この「ちょうどいい弱さ」のおかげです。そして同じ弱さが、紙よりずっと大事なものを支えています。
弱さが支えているもの
タンパク質のかたち。 私たちの体を作るタンパク質は、長いひもが折り紙のように折りたたまれてできています。その折り目を留めているのが水素結合です。もし水素がもっと頑固な性格で、一度くっついたら離れなかったら、私たちの体はカチコチに固まってしまい、動くことも成長することもできませんでした。
DNAの二重らせん。 遺伝情報を伝えるDNAの2本の鎖も、水素結合でつなぎ留められています。
ここで、当然の疑問が出ます。そんなに弱いなら、私のDNAはなぜバラバラにならないのでしょうか。
答えは、数です。1組ずつなら小指の握手でも、何百万組も積み重なれば、全体はびくともしません。
そのかわり、細胞が分裂して遺伝情報を写し取るときには、専用の道具がエネルギーを使って、必要な場所だけを一組ずつはがしていきます。 ひとりでにほどけるのではありません。こじ開けているのです。
弱いから壊れるのではなく、弱いから、狙った場所だけを開けられる。
氷が水に浮くこと。 ふつうの物質は、固体になると重くなって沈みます。ところが氷は浮きます。水素結合が水の分子を、すきまの多い形に並べるからです。
これがどれだけ幸運だったか。冬の池を思い浮かべてみてください。氷は水面に張り、その下では魚が泳いでいます。もし氷が沈む物質だったら、池は底から凍りはじめ、やがて全部が氷の塊になっていたはずです。湖も、海も、同じことです。
ここで、ひとつ大事なことを申し上げておきます。
水素は、弱い元素ではありません。
分子そのものを作るときには、コンクリートで固めた握手を使います。463 という数字がそれでした。ところが、できあがった分子どうしをつなぐときには、わざと小指だけを差し出す。
強い手と、弱い手。この二段構えこそが、水素の正体です。
そして弱いほうの手が、紙を一枚にまとめ、DNAを開け閉めし、氷を水に浮かべている。「不完全で、あいまいであること」を、水素は使い分けているのです。
服を一枚も着ていない、ただ一つの元素
ところで、この結びつきに水素の名前がついているのには、理由があります。ほかの元素には、同じ芸当ができないのです。
原子は、原子核のまわりに電子を何重にもまとっています。玉ねぎのような構造だと思ってください。塩素や酸素は、いちばん外側の電子を相手にとられても、内側にまだ何枚も残っています。原子核がじかに外へ出てくることは、ありません。
しかし水素の電子は、1個きり。それが引っぱられれば、内側には何も残りません。裸の陽子が、そのまま外に出てしまいます。服を一枚しか着ていないので、脱げばいきなり素っ裸なのです。
しかも、その陽子はけた違いに小さい。大きさは水素原子のおよそ6万分の1しかありません。同じ量のプラスの電気が、その小さな一点に集中することになります。相手の電子を、ぐいと強く引きつけられるわけです。
この「むき出しのプラス」が、となりの水分子の酸素を引き寄せる。それが水素結合の正体です。
濡れた紙も、DNAも、氷が浮くことも、もとをたどれば「水素だけが素っ裸になれる」という一点から出ています。
燃えた飛行船と、月へ行った水素
1937年5月6日、アメリカ・ニュージャージー州。着陸態勢に入っていた巨大飛行船ヒンデンブルク号が、突然炎に包まれました。全長245メートル、中身は水素ガス。炎上のようすはニュース映画に収められ、世界中で繰り返し流れました。
「水素は危ない」というイメージは、ほぼこの映像ひとつで決まったと言っていいほどです。
ところが、あの事故の数字はあまり知られていません。乗っていた97人のうち、62人が生き延びています。
理由は水素の軽さでした。水素の炎は、真上へ抜けていったのです。もし中身がガソリンのような重い燃料だったら、燃料は下へ広がり、船体の下にいた人たちを覆っていたはずです。実際、犠牲者の多くは水素の炎そのものではなく、飛び降りたことや、船が積んでいたディーゼル燃料の火によるものでした。
(ではなぜ火がついたのか。これは今も決着していません。漏れた水素に静電気の火花が引火した、という説が主流ですが、外皮の塗料が原因だとする説も出されています。)
軽いことは、危なさであると同時に、逃げ道でもあった——そして同じ「軽さ」が、人類を月まで運びます。
宇宙開発では、重さが最大の敵です。1グラムでも軽く、1グラムあたりで大きな力を出したい。その条件にぴったり当てはまるのが、液体水素と液体酸素の組み合わせでした。アポロ計画のサターンVロケットでは、2段目と3段目のエンジンが液体水素を燃やしています(1段目はケロシンでした)。スペースシャトルの巨大なオレンジ色のタンクも、中身は液体水素と液体酸素です。
そして最近、街で「水素自動車」を見かけるようになりました。ここでひとつ、よくある誤解を解いておきましょう。
あれは、エンジンの中で水素を爆発させて走っているのではありません。
使われているのは燃料電池という仕組みです。水素と酸素を静かに反応させ、そこから直接電気を取り出します。つまり水素自動車とは、自分で発電しながら走る電気自動車です。出てくるのは、排気ガスではなく水だけです。
さらに先の話もあります。月や火星には氷(水)があることが分かっています。太陽光でその水を分解して水素を作れば、現地で燃料を補給できます。水素は、人類が太陽系へ出ていくためのパスポートになるかもしれません。
レモンをしぼると、陽子は何個出るのか
紙のこと、生命のこと、ロケットのことを見てきました。もうひとつ、台所で確かめられる話をします。
レモンや酢を口にしたときの、あの刺激的な酸っぱさ。あの正体こそが、水にとけた水素イオン(H⁺)——さきほどの「裸の陽子」です。舌の表面にある酸味のセンサーが、これを受け取っています。
学校で習う「pH(ピーエイチ)」という言葉は、この水素イオンがどれくらい濃いかを表す目盛りにほかなりません。pHが小さいほど水素イオンが多く、酸っぱくなります。
私は地下水を専門にしていて、pH は毎日のように向き合う数字です。井戸から汲んだ水のpHが7.5なのか6.2なのかで、その水が地下でどんな岩と出会ってきたかが変わります。同じ「水素イオンの濃さ」が、レモンの味も、地下水の履歴も決めているわけです。
では——レモンをしぼったたった一滴の中に、水素イオンは何個いるのでしょうか。
数えてみましょう。
レモン一滴の中に、水素イオンは何個いるか
酸っぱさの正体は水素イオンです。では、たった一滴に何個いるのか数えてみます。
レモン果汁の pH は 2.0〜2.6 程度。ここでは 2.4 として計算しました。一滴は 0.05 mL としています。pH は「水素イオンの濃さ」を対数で表した目盛りで、1 下がるごとに濃さは 10 倍になります。
答えは、約12京個。数字で書くと 120,000,000,000,000,000 個です。
日本人ひとりひとりに10億個ずつ配っても、まだ余ります。それが、レモンのしずく一滴に入っている数です。
朝の鏡の前に、戻ります
さあ、最初の話に戻ります。跳ねた髪が、水で直るのはなぜか。
寝癖は、留め金の掛け違いです
髪の形を留めているのは水素結合です。パネルにカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
髪の形は 4 種類の結びつきで保たれています。そのうち水で切れるのは、いちばん上の 1 つだけです。
ケラチンの 4 つの結合と、それぞれが何で外れるかはデミ コスメティクス「髪の 4 つの結合」、水素結合が濡らすと切れ乾くとつながることは花王「髪が形づくメカニズム」による。図の毛は仕組みを示すための模式で、実際の太さの比ではありません。
髪の主成分はケラチンというタンパク質です。長い鎖が何本も束ねられていて、その形は4種類の結びつきで保たれています。
そのうち、水で切れるのはひとつだけ——ここまで読んでくださった方には、もう見えていると思います。水素結合です。
寝ているあいだ、髪は汗と湿気で湿ります。すると留め金がほどけます。ほどけた髪は、枕に押されるまま自由に曲がる。そしてそのまま乾くと、曲がった位置で結び直されます。
これが寝癖です。
髪が傷んだわけではありません。留め金が掛け違っただけです。
もう一度濡らせば、また外れます。整えて乾かせば、今度は正しい位置で結ばれる。濡れた紙が乾いて戻るのと、まったく同じことが、あなたの頭の上で起きています。
なぜ、水をかけるだけで外れるのか
ここが不思議なところだと思います。ハサミも薬も使っていないのに、なぜ水だけで留め金が外れるのでしょうか。
思い出してください。水素結合は、そもそも水の分子どうしをつないでいるあの力でした。つまり——
水は、髪の留め金とまったく同じ種類の手を持っています。
髪の中では、鎖と鎖が小指をからめ合っています。そこへ水が入りこむと、水の分子も同じ小指を差し出せる。鎖にしてみれば、相手が隣の鎖でも水でも、握り心地は変わりません。そこで握手はほどけ、それぞれが水と握り直します。
引きはがしているのではありません。同じ手を持った相手に、横から割りこまれているだけです。
そして髪が乾くと、水は蒸発して消えます。差し出す手がなくなった鎖は、また近くの鎖と握手する。そのとき髪が曲がっていれば、曲がったまま結ばれます。
直し方が、仕組みから出てきます
ここまで分かると、朝の手順の意味が見えてきます。
毛先だけ濡らしても、たいてい直りません。 曲がっているのは根元で、掛け違った留め金も根元にあるからです。濡らすべきは、跳ねている毛先ではなくその根元。美容師さんが「根もとから濡らして」と言うのは、これが理由です。
そして、濡らしただけでも終わりません。 水が入って留め金が外れた状態は、まだ形が決まっていないだけです。そこで整えて、乾かす。乾いた瞬間に、その形で結ばれます。
ドライヤーとブラシで髪型を作る作業は、まさにこれをやっています。濡らして外し、形を作って、乾かして留める。
そして——寝る前に髪を乾かしなさい、と言われる理由も同じでした。濡れたまま寝れば、枕が押した形のまま乾いてしまう。翌朝の寝癖は、その夜のうちに決まっています。
なぜ、パーマは水で落ちないのか
いっぽう、シスチン結合には水が手を出せません。理由が2つあります。
ひとつは、強さです。 硫黄どうしの結びつきは約 250。図3で見た小指の握手(約20)ではなく、コンクリートで固めた握手(463)と同じ側にあります。水がゆさぶったくらいでは、びくともしません。
もうひとつが、本質です。水は、硫黄の手を持っていません。
水素結合のときは、水が「代わりの相手」になれました。ところが硫黄どうしの結びつきには、差し出せる手がそもそも無い。 強い弱い以前に、割りこみようがないのです。
そこでパーマ液は、薬剤で切ります。 1剤(還元剤)で硫黄の結びつきを断ち、髪を巻いた形にしてから、2剤(酸化剤)でつなぎ直す。別の位置で結び直してしまうので、洗っても戻りません。
水で戻るのが寝癖、薬でしか戻らないのがパーマ。 分けているのは、水が同じ手を持っているかどうかでした。
放っておけば離れない。けれど、その気になれば離せる。
この絶妙な弱さを、私たちは毎朝、鏡の前で確かめていることになります(図3)。
次回は
第2回は、炭素(C)を取り上げます。
たった6個の陽子を持つだけのこの元素が、なぜ「元素の王様」と呼ばれるのか。同じ炭素からダイヤモンドと鉛筆の芯(黒鉛)ができるのはなぜか。そして、私たちの体と地球の未来が、どちらもこの元素の手のひらの上にあるのはどうしてなのか。
その話をします。
もっと知りたい人へ
この記事で使った数値と逸話の出どころです。
- 宇宙の元素存在度:Lodders, K. (2003) The Astrophysical Journal, 591, 1220–1247;Asplund, M. et al. (2009) Annual Review of Astronomy and Astrophysics, 47, 481–522
- 結合エネルギー:Luo, Y.-R. (2007) Comprehensive Handbook of Chemical Bond Energies, CRC Press。本文の 463 kJ/mol は O–H の平均結合エンタルピー(水の1本目 497、2本目 426 の平均)で、解離エネルギーそのものではありません
- 陽子の電荷半径・物理定数:CODATA 2018 推奨値[NIST Fundamental Physical Constants]
- 寝癖の直し方と予防:美容師による解説(OZmall)。「部分的な寝癖は、スプレイヤーを使って根もとから濡らす」「一度付いてしまった寝癖を直すには、髪の毛の内部までしっかりと水分を浸透させることが重要」「寝癖ができる最大の原因は、髪に水分を含んだまま寝てしまうこと」。本文の3つの助言は、どれも上の仕組みからそのまま出てくるもので、現場の言い方とも一致しています
- シスチン結合(S–S)の強さ:約 250 kJ/mol(60 kcal/mol)。本文で比べた水素結合の約 20 kJ/mol とは 12 倍以上の開きがあり、水では切れません。なお強アルカリで加熱すれば水酸化物イオンが切ることはできますが、常温の水では起こりません
- DNA が開くしくみ:二重らせんは、ひとりでにほどけるわけではありません。ヘリカーゼという酵素が ATP のエネルギーを使ってこじ開けています。本文の「専用の道具」はこれを指します。また、らせんの安定には塩基どうしの積み重なり(スタッキング)の寄与も大きく、水素結合だけで保たれているわけではありません
- 髪の形を保つ結合:デミ コスメティクス「髪の4つの結合」;花王「髪が形づくメカニズム」。ケラチンはペプチド結合・水素結合・塩(イオン)結合・シスチン結合の4つで形を保っており、水で切れるのは水素結合だけです(塩結合は水そのものより pH で外れ、髪が落ち着くのは pH 4.5〜5.5 のあたり)。パーマは1剤(還元剤)でシスチン結合を切り、2剤(酸化剤)でつなぎ直す処理です
- 「燃える空気」の特徴づけ:Cavendish, H. (1766) Philosophical Transactions of the Royal Society, 56, 141–184(1766年11月6日読み上げ)。金属と酸から可燃性の気体が出ること自体はボイル (1671) らが先行しており、キャベンディッシュの功績はその密度を測って独立した物質として特徴づけた点にあります。人柄をめぐる逸話の多くは Wilson, G. (1851) The Life of the Honourable Henry Cavendish(全文公開)に由来し、19世紀の脚色が混じっている可能性があります
- 「水の論争」(水の合成の先取権をめぐるキャベンディッシュ・ワット・ラボアジエの論争):19世紀以来くり返し検討されてきた主題で、現在も一人の発見者に帰す見方は取られていません
- hydrogen の命名:Guyton de Morveau, L. B., Lavoisier, A. et al. (1787) Méthode de nomenclature chimique, Paris(フランス国立図書館 Gallica で全ページ公開)。呼び名そのものは1780年代半ばの水の分解・合成実験のなかでラボアジエが提案しており、提案の正確な年については1783年説と1785年説があります。ラグランジュの言葉は同時代の直接記録がなく、後年の伝聞として広く引かれているものです
- 水ができることの発見:Cavendish, H. (1784) Philosophical Transactions, 74, 119–153。実験そのものは1781年の夏に行われたと、ブラグデンの書き入れが伝えています(本文の「15年後」はこれを指します)
- ヒンデンブルク号:U.S. Department of Commerce, Bureau of Air Commerce (1937) Report of the Airship “Hindenburg” Accident Investigation(Air Commerce Bulletin 1937年8月15日号。全文転載)。乗っていた97人のうち35人が亡くなり、62人が生還しました(ほかに地上作業員1人が犠牲になっています)。塗料原因説は Bain, A. & Van Vorst, W. D. (1999) International Journal of Hydrogen Energy, 24, 399–403 による提案で、決着はしていません
- 水素の性質全般:Emsley, J. Nature’s Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements, Oxford University Press