大きく、息を吸ってみてください。
いま肺に入ったもののうち、5分の1が酸素です。残りのほとんどは窒素で、こちらは吸っても吐いても、体をただ通り抜けていくだけです。
あなたが使ったのは、その5分の1のほうでした。
そしてこの5分の1は——放っておけば、消えてしまうものです。
酸素は鉄を錆びさせ、木を朽ちさせ、油を古くします。何かと結びついてしまえば、気体のままではいられません。それでも空気の2割を占め続けているのは、いまこの瞬間も、誰かが作り続けているからです。
そのうえ、この気体は毒です。私たちはその毒を吸って暮らしていて、しかも、なしでは生きられません。
「酸の素」という、間違った名前
まず、名前から始めましょう。
酸素は英語で oxygen。ギリシャ語の「酸っぱいもの(oxys)」と「生むもの(genes)」を合わせた言葉で、そのまま 酸を生むもの という意味です。日本語の「酸素」も、この直訳にあたります。
名づけたのは、アントワーヌ・ラボアジエ。
……また、この人です。第1回で水素に hydrogène(水を生むもの)と名づけ、第2回で炭素に carbone と名づけた、あのフランスの化学者です。3回続けての登場になります。
ただし今回は、少し事情が違います。
ラボアジエは、酸っぱいものにはすべて酸素が入っていると信じていました。それでこの気体を「酸の素」と呼んだのです。
ところが、そうではありませんでした。
塩酸(HCl)には、酸素がひとつも入っていません。それでもれっきとした酸です。ラボアジエの思いこみは、後の化学者たちによってきれいに否定されました。
それでも、名前は間違ったまま残りました。
英語の oxygen も、日本語の酸素も、いまなお「酸を生むもの」と言い続けています。近代化学の父と呼ばれた人の勘違いが、二百数十年たったいまも、世界中の教室で毎日使われている。少し愉快な話ではないでしょうか。
酸素は、どこにでもいます
「酸素」と聞いて思い浮かぶのは、たぶん呼吸する気体のほうだと思います。
ところが酸素という原子は、そこらじゅうにあります。
酸素は、どこにでもいます
重さのうち何%が酸素かを並べました。カーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その中身が下に出ます。
水素とがっちり組んでいる
ほとんどが水とタンパク質の中
ケイ素や鉄と組んで岩になっている
酸素どうしがペアを組んで漂っている
水の値は標準原子量(酸素 15.999、水素 1.008)からの計算です。人体は質量比で酸素 65%(酸素・炭素・水素・窒素の4つで96%を超えます)。地殻は約46%(CRC Handbook。版により 46.1〜46.6%)。乾燥空気の酸素は 20.946%。「自由な O₂ があるのは地球だけ」とは書いていません。彗星やエウロパなどからごく微量の O₂ が見つかっています。地球が特別なのは、大気の2割を占めるほど大量に、かつ長期間保たれている点です。
水の重さの 88.8% は酸素です。水素2個と酸素1個でできていますが、酸素は水素の16倍も重いので、重さで見れば圧倒的に酸素なのです。あなたの体重の6割は水ですから、あなたはもう、かなりの部分が酸素でできています。
足もとの地面も同じです。地殻の重さの 約46% が酸素で、これは地球でいちばん多い元素です。鉄でも炭素でもありません。地面をひとすくいすれば、その半分近くは酸素の重さです。
では、酸素はありふれた元素なのでしょうか。
そうではありません。
いま挙げた酸素は、すべてほかの元素とがっちり手を組んでいます。水の中の酸素は水素と、岩の中の酸素はケイ素と。組んでしまえば動けません。火星にも月にも酸素はたっぷりありますが、すべてこの姿です。岩を吸っても、呼吸はできません。
めずらしいのは、そちらではないのです。
空気の2割だけが、どこにも縛られていない酸素——酸素どうしが2個で組んだ O₂ という気体です。そしてこの姿は、放っておけば長くは保ちません。鉄を錆びさせ、木を朽ちさせ、やがて何かと結びついて消えてしまう。
それでも、2割の濃さが保たれ続けています。
生き物が、いまも作り続けているからです。
私たちはなぜ、燃えないのか
ここで、落ち着いて考えると少し恐ろしいことに気づきます。
酸素は鉄を錆びさせます。紙を燃やします。放っておけば、たいていのものと結びついてしまう。
そして私たちの体は、炭素と水素の塊です。材料でいえば、木や紙とほとんど変わりません。
その体が、2割の酸素に四六時中つかっている。
なぜ、燃えないのでしょうか。
答えを探しに、少しだけ寄り道をします。
液体酸素は、磁石にくっつきます
空気をどんどん冷やしていくと、やがて液体になります。
その液体を、強い磁石のあいだに垂らしてみましょう。
液体窒素は、そのまま落ちていきます。 磁石など無いかのように、すっと通り過ぎる。
ところが液体酸素は、磁石のあいだで止まります。 うすい青色をした液体が、磁石にくっついたまま、蒸発してしまうまでそこに留まるのです。
同じ空気の成分で、しかも隣どうしの元素です。この違いは、いったい何なのでしょうか。
酸素は、磁石にくっつく
空気の中で圧倒的に多いのは窒素です。ところが液体窒素は磁石に反応せず、液体酸素は磁石に引き寄せられます。この違いが、私たちが燃えない理由につながっています。カーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その事情が下に出ます。
矢印 1本が、電子1個。矢印の向きが、本文でいう「向き」です。同じ向きにそろっているのが、酸素だけの特徴になります。
電子は、同じ部屋に入るときは必ず逆向きの2個で対になります。対になると磁石の性質は打ち消し合います。ところが酸素は電子が2個多く、その2個は別々の部屋に、同じ向きで入ることになる。打ち消されずに残ったこの2個が、酸素を磁石に引き寄せています。
対になっていない2個を対にそろえるのに要るエネルギーです。本文でいう「壁」の高さが、これにあたります。窒素は 50,204 cm⁻¹、酸素はその6.4分の1の 7,882 cm⁻¹。波長になおすと 1.27 μm——前回覚えた「10000 ÷ 波数」を、そのまま使えます。
結合の長さと電子の状態は NIST Chemistry WebBook 収録の実験値です。O₂ の基底状態は X ³Σg⁻(結合長 1.20752 Å)で、最初の励起状態 a ¹Δg までが 7,882.39 cm⁻¹。N₂ の基底状態は X ¹Σg⁺(結合長 1.097685 Å)で、最初の励起状態 A ³Σu⁺ までが 50,203.63 cm⁻¹。kJ/mol への換算は 1 cm⁻¹ = 11.96266 J/mol、波長への換算は 10000 ÷ 波数 です。「対になっていない電子が2個ある」ことは、項記号の左肩の 3(三重項)から直接読み取れます。酸素がなぜ反応しにくいままでいられるのかの理論的な検討は Borden, Hoffmann, Stuyver & Chen (2017) J. Am. Chem. Soc. 139, 9010–9018 にあります。「部屋」の絵は電子の入り方を簡単にしたもので、実際にはいちばん外側の2つは π* とよばれる軌道です。
「向き」が、そろっていない
原子のまわりにいる電子は、好きなところに漂っているわけではありません。入れる場所が、あらかじめ決まっています。 ここではそれを 部屋 と呼ぶことにします。
部屋は内側から順に埋まっていきます。そして大事なのは、外とやりとりするのは、いちばん外側の部屋にいる電子だけだということです。内側の部屋の電子は、奥に引っこんだまま出てきません。原子どうしが手を組むか組まないかは、外側の部屋の様子だけで決まります。
その部屋には、入り方の決まりがあります。
ひとつの部屋には2個まで。 そして2個で入るときは、必ず逆向きの組になります。逆向きの2個は、磁石としての性質を打ち消し合う。ふつうの物質が磁石に反応しないのは、そのためです。
窒素は、この決まりどおりに全部が対で埋まっています。いちばん外側の部屋は、空のまま。
酸素は、窒素より電子が2個多い。その2個が、いちばん外側の部屋に入ります。ところが部屋は2つあるので、わざわざ同じ部屋に押しこむ理由がありません。 別々の部屋に、1個ずつ。しかも同じ向きで入ることになります。
打ち消し合う相手のいない電子が、2個。
これが、液体酸素を磁石に引き寄せていたものの正体です。
そして——ここからが本題です。
私たちの体を作っている分子は、電子がすべて逆向きの対になっています。いっぽう酸素の2個は、同じ向きにそろっている。
この2つは、そのままでは組めません。
向きが合わないのです。組むには、どちらかが向きを変えるしかない。そして向きを変えるには、エネルギーが要ります。
つまり酸素は、反応をはじめる前に、必ず越えなければならない段差を抱えていることになります。この記事では、これを 「壁」 と呼ぶことにします。図の下の段に描いてあるのが、その壁の高さです。
酸素の壁は、窒素の 6.4分の1 しかありません。 越えやすい壁です。つまり酸素は、いつでも反応したがっている。それでも、越えるきっかけがなければ動けません。
マッチをする、というのは、この壁を越えさせるための最初のひと押しでした。
私たちが燃えないのは、酸素がおとなしいからではありません。壁の手前で、待たされているだけです。
酸素と有機物の反応は、エネルギーの収支で見れば大きく得をします。反応が起きないのではなく、始まるまでに時間がかかるのです。生き物の体は、この「時間がかかる」という一点の上に成り立っています。
なぜ、減らないのか
ここで、おかしなことに気づきます。
使い捨てカイロの袋を、開けたことがありますか。中身は鉄の粉です。空気に触れたとたん鉄は錆びはじめ、その錆びる熱で50℃ほどになります。手のひらの上で、錆が熱を出しているわけです。
切ったリンゴは茶色くなります。釘は錆びます。揚げ物の油は古くなります。どれも、酸素が持っていったものです。
つまり酸素は、放っておけばどんどん減る方向に働いています。
それなのに、空気の21%を保っている。誰かが、補充しているはずです。
理科の授業で、水草に光を当てる実験をしたことがあるかもしれません。しばらくすると、葉のふちから小さな泡がのぼりはじめます。
あれが、酸素です。
植物は太陽の光で水を分解し、水素のほうを自分の材料に使い、いらなくなった酸素を捨てています。 これが 光合成 です。陸の植物と、海の植物プランクトン。私たちが吸っているのは、彼らにとってのごみです。
いま、酸素はどう出入りしているか
棒はすべて同じ物差しです。カーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
毎年の出入り(酸素のモル数)
入れ替わるのにかかる時間
酸素が尽きるまで
大気の酸素量は大気質量 5.148 × 1021 g(Trenberth & Smith 2005)、空気の平均分子量 28.96 g/mol、乾燥空気の O2 20.946 vol% から計算。光合成の量は総一次生産 110〜250 PgC/年の推定幅を、炭素 1 mol につき酸素 1 mol として換算したもの。減少速度は Scripps O2 Program(Ralph Keeling)による年 19 per meg(空気に対して約 4 ppm)。
数で見ると、こうなります。
空気にある酸素は、全部で 3.72 × 10¹⁹ モル。
モルというのは、粒をまとめて数えるための単位です。 鉛筆12本を1ダースと呼ぶのと同じ考え方で、1モルはおよそ 6×10²³ 個にあたります。ここでは「とんでもない数」くらいに思っておいてください。
この量を、銀行の貯金だと思ってください。
この貯金に、光合成が毎年いくらか入れています。そして呼吸と分解が、毎年いくらか引き出しています。入る額と出る額が、ほとんど同じ。
この釣り合いが、21%を保っています。
ここで、割り算をひとつ。貯金の総額を、毎年の出入りの額で割ります。 出てくるのは「いまの貯金は、何年ぶんの出入りにあたるか」という数です。言いかえれば——空気の酸素がそっくり入れ替わるのに、何年かかるか。
答えは、数千年でした。
いま吸った酸素も、数千年前には誰かの——あるいは何かの——中を通っていたことになります。
いま、酸素は減っています
あまり知られていない事実を、ひとつ。
酸素は、実際に減っています。
カリフォルニアのスクリップス海洋研究所が、1980年代の終わりから、空気の酸素を測り続けています。結果は、年に100万分の4ずつ、着実に減っている。 化石燃料を燃やしているぶんです。
ただ、驚かないでください。この速さのままなら、いまある酸素が尽きるまでに5万年かかります。息が苦しくなる心配は、当面ありません。
問題は、同じ燃焼で増えているほうです。二酸化炭素。減るほうは5万年かけてゆっくりですが、増えるほうはもう効いています。 前回、1万個のマスを並べて数えた、あの話です。
毒が、盾になった
空へ出た酸素には、もうひとつの顔があります。
オゾン(O₃) です。
空の高いところで酸素分子に強い紫外線が当たると、酸素はいったんバラバラに壊れます。そして壊れた酸素原子が別の酸素分子とくっつくと、酸素原子3個が組んだオゾンになる。
このオゾンが、地球を覆いました。
毒が、盾になった
上がオゾンの吸う強さ、下が地上に届く割合です。曲線にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その意味が下に出ます。
| 波長 | オゾンが吸う強さ | 地上に届く割合 | |
|---|---|---|---|
| 260 nm | 96% | 10-40 以下 | DNA が壊れる波長 |
| 280 nm | 34% | 10-14 以下 | UV-C の端 |
| 290 nm | 12% | 10-5 以下 | |
| 300 nm | 3% | 6% | |
| 310 nm | 1% | 61% | |
| 320 nm | 0% | 94% | |
| 350 nm | 0% | 100% | UV-A |
下の段の縦軸は、1目盛りごとに1000分の1になります。290 nm より短い紫外線は、10万分の1以下しか地上に届きません。そして DNA がいちばん壊されやすい 260 nm では、図の下限を振り切ってほぼ完全にゼロです。
地上に届く割合は模式図ではなく計算です。オゾンの吸収(ハートレー帯)の実測値——ピーク 1.17×10⁻¹⁷ cm²、中心 約255 nm、半値全幅 約40 nm——に合わせたなめらかな曲線を使い、オゾン全量 300 DU(世界平均。1 DU = 2.687×10¹⁶ 分子/cm²)を通したときの透過率をベール・ランベルト則で求めました。その結果、地上の紫外線が 290〜300 nm あたりで切れるという実際の姿が再現されます。ただし、ハートレー帯はガウス形そのものではありません(長波長側にはハギンズ帯とよばれる別の構造があります)。ここでは山の位置・高さ・幅を実測に合わせた近似です。DNA については吸収極大の位置(260 nm)だけが確かなので、曲線は描かず、印だけを置いています。
ここに、できすぎた一致があります。
DNA がいちばん壊されやすい光の波長は、260 nm(ナノメートル)です。 光を吸うということは、エネルギーを受け取るということ。受け取りすぎれば、壊れます。
そしてオゾンがいちばん強く吸うのは、255 nm。
5 nm しか、離れていません。
その結果、290 nm より短い紫外線は、10万分の1以下しか地上に届きません。 DNA が壊れる 260 nm にいたっては、ほぼ完全にゼロです(図の下の段。縦軸は1目盛りごとに1000分の1になります)。
この盾が薄くなるとどうなるかは、いま実際に観測されています。南極の上空でオゾンが減った年は、地上に届く紫外線がはっきり強くなります。 天気予報に出る「UV指数」も、日焼け止めに書いてある数字も、もとをたどればこの層がどれだけ働いているかの話です。
自分が捨てた毒が、めぐりめぐって、自分を守る盾になっている。
いま外に出て日を浴びていられるのは、頭の上20〜30キロにある、この薄い層のおかげです。
4つの席を持つ、賢い運び屋
さて、私たちの体の中に戻ります。
吸いこんだ酸素は、ヘモグロビンという運び屋によって全身に届けられます。血が赤いのは、この運び屋が赤いからです。
ヘモグロビンには、酸素をつかむ席が 4つ あります。
運び屋には、無理な注文が出ています
ここで、運び屋の身になって考えてみてください。
肺では、できるだけたくさん積みたい。 酸素がたっぷりある場所ですから、しっかりつかまえる性質が要ります。
ところが筋肉では、できるだけたくさん降ろしたい。 酸素が足りない場所ですから、あっさり手放す性質が要ります。
つかまえるのが上手で、しかも手放すのも上手。
ふつう、この2つは両立しません。強い磁石ほど、離すのに力が要る。しっかりつかむ運び屋は、降ろすのも下手なはずです。
ヘモグロビンは、この無理な注文を解いています。
やり方は、「仲間の様子を見る」でした。
1つ目の席に酸素がつかまると、残りの3つがつかまえやすく変化します。 逆に1つ手放すと、残りも手放しやすくなる。つられるのです。
その結果どうなるか。酸素の多い場所では次々に席が埋まり、少ない場所では次々に空きます。 混んでいるところではより貪欲に、空いているところではより気前よく。
この「つられる」性質が、曲線を S字 にします。
なぜ、S字でなければならなかったのか
ヘモグロビンがどれだけ酸素を持っているかを、まわりの酸素の濃さに対して描いたものです。赤い丸や点線の曲線にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その意味が下に出ます。
| 場所 | 酸素の濃さ | ヘモグロビン(S字) | 協同性が無かったら |
|---|---|---|---|
| 肺 | 100 mmHg | 97.7% | 79.0% |
| 休んでいる体 | 40 mmHg | 74.9% | 60.1% |
| 運動中の筋肉 | 20 mmHg | 32.0% | 42.9% |
| 肺 → 運動中の筋肉で渡せる量 | — | 65.8 ポイント | 36.1 ポイント |
同じ「半分の点」を通しているのに、渡せる量が倍近く違います。S字の平らな天井のおかげで肺ではめいっぱい積め、S字の急な坂のおかげで酸素が足りない場所ほど、一気に手放せる。必要としている場所に、必要な量だけ届く仕組みです。
曲線は空想ではなく、公表されている式をそのまま描いたものです。Severinghaus, J. W. (1979) "Simple, accurate equations for human blood O₂ dissociation computations" J. Appl. Physiol. 46, 599–602 の式 S = 1 ÷ ( 23400 ÷ (PO₂³ + 150·PO₂) + 1 )。この式に 40 mmHg を入れると 75.0% が出ます——教科書にある「静脈血の酸素飽和度は約75%」がそのまま再現されます。比較用の点線は、協同性が無い場合(S = PO₂ ÷ (PO₂ + P50))を同じ P50(26.6 mmHg)で描いたものです。酸素分圧の値(肺 約100・安静時の組織 約40・運動中の筋肉 20 前後)は生理学の標準的な目安で、個人や状態によって動きます。
横軸は、まわりにどれだけ酸素があるか(酸素分圧、単位は mmHg)。縦軸は、4つの席のうち何%が酸素で埋まっているか。 左へ行くほど酸素の乏しい場所、上へ行くほど満タンに近い——上の図は、そう読んでください。
肺は、S字の平らな天井にあたります。 酸素がたっぷりあるので、97.7% までめいっぱい積める。しかも天井が平らなので、多少酸素が薄くなっても満タンのまま——高い山に登っても、しばらく平気でいられる理由です。
運動している筋肉は、S字の急な坂にあたります。 ここでは、わずかな違いで一気に手放せる。
もし「つられる」性質がなかったら、どうなっていたでしょうか。同じ半分の点を通しても、運動中の筋肉に渡せる量は半分ほどになってしまいます(図の点線)。
酸素の多いところでは貪欲に、少ないところでは気前よく。
必要としている場所に、必要な量だけ届く。4つの席が互いにささやき合うことで、この芸当が成り立っています。
錆びる、燃える、呼吸する
前回の終わりに、こんな予告をしました。錆びる、燃える、老いる——この3つが実は同じ現象であると。
まず、前の2つから片づけましょう。
錆びる、燃える、呼吸する
この3つは、まったく同じ反応です。酸素1モルあたりに出るエネルギーで揃えて並べました。カーソルを合わせる(スマホはタップ)と、その中身が下に出ます。
速さ:何年もかけて、少しずつ
速さ:体温のまま、ゆっくり確実に
速さ:火をつけた瞬間、一気に
棒の長さは、酸素1モルを使ったときに出るエネルギーです。445 〜 550 kJ——いちばん大きいものでも、いちばん小さいものの1.24倍しかありません。しかも意外なことに、いちばん多くエネルギーを出すのは「錆びる」のほうです。
・燃える——熱で壁を越えさせる。いちど越えると連鎖して一気に進む。
・呼吸する——鉄を含む酵素が、壁を回り道させる。体温のまま、少しずつ、取り出せる形で。
・錆びる——壁をなかなか越えられないまま、何年もかけて少しずつ。
エネルギーはすべて標準生成エンタルピーからの計算です。Fe₂O₃(s) −825.5 kJ/mol(NIST-JANAF 第4版)、CO₂(g) −393.51 kJ/mol、H₂O(液) −285.83 kJ/mol(CODATA)、ブドウ糖(s) −1273.3 kJ/mol。メタンだけは直接測られた燃焼熱 −890.7±0.4 kJ/mol(NIST WebBook、Pittam & Pilcher 1972)を使いました。ブドウ糖の燃焼熱は生成エンタルピーから −2802.7 kJ/mol と出て、文献値の約 −2803 kJ/mol と一致します。速さについては数値を書いていません。錆びる速さは湿り気や塩分で桁が変わりますし、「燃焼1回にかかる時間」も定義しだいで変わるためです。エネルギーは数値で、速さは言葉で示しています。
自転車が錆びること。ガスコンロが燃えること。そしてあなたがいま呼吸していること。
この3つは、化学としてはまったく同じ現象です。 どれも「電子が酸素へ移る」。
そして出てくるエネルギーを、酸素1モルあたりで揃えてみると——ほとんど変わりません。それどころか、いちばん多くエネルギーを出すのは、意外にも錆びるほうでした。
では、なぜ自転車は熱くならず、ガスは炎を上げるのか。
違いは、速さだけです。
そして速さを決めているのが、さきほどの 壁——反応をはじめる前に越えなければならない、あの段差でした。
- 燃える——熱で壁を越えさせます。いちど越えると、そこで生まれたものが次を壊し、また次を壊し、と連鎖して一気に進む。これが炎です。
- 錆びる——壁をなかなか越えられないまま、何年もかけて少しずつ。
- 呼吸する——生き物は、壁を壊すのではなく 回り道 を見つけました。
回り道を用意しているのは、鉄を含む酵素です。
酸素をそのまま体の中で燃やしたら、細胞は焼け死んでしまいます。生き物は反応を何段階にも小分けし、鉄の力を借りて、体温のまま、少しずつエネルギーを取り出す方法を編み出しました。
燃やすのではなく、制御して燃やしている。
私たちが体温 37 度で生きていられるのは、この回り道のおかげです。
それでも、酸素は毒です
さて、残ったのは「老いる」でした。
その前に、ひとつ確かなことがあります。酸素は、いまでも毒です。
呼吸のとちゅうで、酸素はときどき中途半端な姿になります。電子を受け取りきれなかった、不安定な状態。これを 活性酸素 と呼びます。
活性酸素は、さきほどの「壁」を持ちません。待たずに、いきなり反応します。 手当たりしだいに、DNA もタンパク質も細胞膜も傷つけていく。
体はこれに備えて、活性酸素を打ち消す専用の酵素をいくつも持っています。それでも取りこぼしは出ます。
純粋な酸素を高い圧力で吸い続けると人が中毒を起こすのも、この活性酸素によるものです。酸素は、多すぎれば毒に戻ります。
では、老いることは、これで説明がつくのでしょうか。
「活性酸素が体を少しずつ傷つけ、それが積み重なって老化になる」——これは 1956年に提唱された有名な説 で、いまも広く知られています。ただし、この説は近年大きく揺らいでいます。
決め手になったのは、抗酸化物質のサプリメントを飲んだ人と飲まなかった人を比べた研究でした。78の臨床試験・約30万人をまとめた解析では、死亡率が下がらないばかりか、β-カロテンとビタミンEではむしろ上がるという結果が出ています。
酸化によるダメージが体に起きていることは確かです。けれども 「老化の原因は活性酸素だ」と言い切れる段階にはありません。 生き物の側も、ある程度の活性酸素を信号として使っていることが分かってきました。
ですから、正確にはこう言うべきでしょう。錆びることと燃えることは、間違いなく同じ現象です。老いることについては、酸素が関わっているのは確かですが、それだけでは説明がつきません。
歯切れが悪くて申し訳ないのですが、いま分かっているのは、そこまでです。
もう一度、深呼吸を
最後に、もう一度だけ息を吸ってみてください。
いま入ってきた酸素は、どこかの植物か、海の植物プランクトンが捨てたごみです。同じものが、鉄を錆びさせ、リンゴを茶色くし、カイロを熱くします。そして頭の上ではオゾンになって、あなたに日を浴びせても平気でいさせる盾になっています。
その酸素は、あなたの肺でヘモグロビンの4つの席に積みこまれ、いちばん必要としている場所まで運ばれていきます。そして体の奥で、鉄を含む酵素の手引きによって、燃えることなく静かに使われる。
鉄を錆びさせるのと同じ反応が、あなたの中では、あなたを生かすために使われています。
いちばん多い元素でありながら、いちばん危ない元素。地球を一度は殺しかけ、そして地球を住める場所に変えた元素。
私たちは、その毒を吸って生きています。
次回は
第4回は、窒素(N)です。
いま吸った空気のうち、酸素は5分の1でした。では残りは何だったのか——78%が窒素です。二酸化炭素の1,800倍以上あります。
ところが。
生き物は、この窒素をそのまま使えません。
炭素は空気から取れました。酸素も空気から取れました。窒素だけが、目の前にあふれているのに手が出せないのです。理由は、2個の窒素があまりにも固く手を結んでいることにあります。
その結び目をほどく方法を人類が見つけたのは、たった百年ほど前でした。そしてその発明のおかげで、いま地球に暮らす人々の食卓が支えられています。同じ発明が、戦争の道具にもなりました。
空気の8割を占めながら、いちばん手に入りにくかった元素の話です。
もっと知りたい人へ
- 酸素分子の電子の状態と結合の長さ:NIST Chemistry WebBook。この記事の数値はここに収録された実験値です(O₂ は基底状態 X ³Σg⁻・結合長 1.20752 Å・最初の励起状態まで 7,882.39 cm⁻¹、N₂ は X ¹Σg⁺・1.097685 Å・50,203.63 cm⁻¹)
- 酸素がなぜ反応しにくいままでいられるのか:Borden, W. T., Hoffmann, R., Stuyver, T. & Chen, B. (2017) “Dioxygen: What Makes This Triplet Diradical Kinetically Persistent?” J. Am. Chem. Soc. 139, 9010–9018
- 空気にある酸素の総量:大気の質量 5.148×10²¹ g(Trenberth, K. E. & Smith, L. (2005) “The Mass of the Atmosphere: A Constraint on Global Analyses” Journal of Climate 18, 864–875)、空気の平均分子量 28.96 g/mol、乾燥空気の O₂ 20.946 vol% から計算しました(3.72×10¹⁹ mol)
- 光合成が毎年入れる量:総一次生産の推定 110〜250 PgC/年を、炭素1モルにつき酸素1モルとして換算したもの。この量は研究によって幅があり、図の棒の右端をぼかしてあるのはそのためです
- いま酸素が減っていること:Scripps O₂ Program(Ralph Keeling)。1980年代末から続く直接測定で、減少は年 19 per meg(空気に対して約 4 ppm)です
- ヘモグロビンのS字曲線:Severinghaus, J. W. (1979) “Simple, accurate equations for human blood O₂ dissociation computations” J. Appl. Physiol. 46, 599–602。図の曲線は、この論文の式をそのまま描いたものです
- 抗酸化サプリメントと死亡率:Bjelakovic, G. et al. (2012) “Antioxidant supplements for prevention of mortality in healthy participants and patients with various diseases” Cochrane Database of Systematic Reviews, CD007176(78の試験・296,707人)
- オゾンの観測:NOAA Global Monitoring Laboratory 総オゾン量。1920年代から続くドブソン分光計による観測で、世界15か所の観測所を維持しています。図で使ったオゾン全量 300 DU は世界平均の目安で、1 DU = 2.687×10¹⁶ 分子/cm² にあたります
- 元素の存在度(人体・地殻):Emsley, J. Nature’s Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements, Oxford University Press