「稲妻」と書いて、いなずま。
不思議な字だと思ったことはありませんか。光っているのは空なのに、なぜ稲なのか。そして妻とは、誰のことなのか。
これは「稲の夫(つま)」です。昔の日本語で「つま」は、男女どちらにも使う「連れ合い」を指しました。
そう呼ばれた理由は、単純でした。雷がよく鳴った年は、稲がよく実る。
田んぼで働く人たちは、それを何百年も見ていました。理由は分かりません。分からないまま、雷を稲の連れ合いだと考えて、そう名づけた。
では——本当に、雷が稲を育てていたのでしょうか。
この記事の最後に、数字で確かめます。先に言ってしまうと、答えは「はい」でもあり、「いいえ」でもありました。
案内役は、いまあなたが吸っている空気の8割を占めながら、そのほとんどが使えないまま素通りしていく元素——窒素(N)です。
「生命が無い」と名づけられた元素
名前から始めましょう。
……また、この人です。アントワーヌ・ラボアジエ。
第1回で水素に、第2回で炭素に、第3回で酸素に名前をつけた、あのフランスの化学者です。4回続けての登場になります。
彼は空気を分けて、片方では動物が生き、火が明るく燃えることを確かめました。それが酸素です。
そしてもう片方では、動物が死に、火が消えた。
そこでラボアジエは、この気体をギリシャ語から作った言葉で呼びました。
a(無い)+ zoe(生命)= Azote(アゾート)
「生命が無いもの」。
ただし、日本語の「窒素」は、この訳ではありません。
入ってきたのはオランダ語からでした。オランダ語では stikstof——stik(窒息する)+ stof(物質)。これを 宇田川榕菴 が「窒素」と訳しました(1834年)。「窒」は息が詰まるという字です。
つまり、名前は途中で意味が変わっています。フランス語は「命が無い」、ドイツ語とオランダ語は「窒息させる」、日本語はそのオランダ語を訳した。
ちなみに酸素(zuurstof=酸っぱい物質)も水素(waterstof=水の物質)も、同じ人が同じ本で訳しています。日本語の元素名は、オランダ語から来ました。
ここに、科学史の皮肉があります。この元素なしでは、タンパク質もDNAも作れません。 生命に絶対必要な元素に、「生命を否定する」名前がついてしまった。
そして英語は、まったく別のところから名前を取りました。nitrogen です。語源は nitre(硝石)——硝石を生むもの、という意味になります。
硝石は、火薬の原料です。
フランス語では「命の無いもの」、日本語では「窒息させるもの」、そして英語では「火薬のもと」。 同じ元素です。そしてこのあと見るとおり、どれも当たっていました。
空気の8割が、手に入りません
いま吸った空気の中身を、数で見てみます。
空気の分子 100 個のうち、78 個が窒素です
乾燥した空気の成分を、分子 100 個で表しました。下の札にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
空気の分子 100 個
乾燥空気の体積比(=分子数の比):窒素 78.084%、酸素 20.946%、アルゴン 0.934%、二酸化炭素 約 0.043%。100 個に丸めているため、アルゴンは 1 個、二酸化炭素は 0 個として描いています。第2回では同じ空気を 1 万個で数え、二酸化炭素を 4 個として描きました。
窒素が 78%。酸素が 21%。残りの1%にアルゴンなどが入り、二酸化炭素は 0.04% しかありません。
窒素は、二酸化炭素の 1,800倍以上あることになります。
そして——あなたの体は、その窒素をひとかけらも使えません。
吸っては吐き、吸っては吐く。肺を素通りするだけです。前回、「残りのほとんどは窒素で、こちらは吸っても吐いても体をただ通り抜けていくだけです」と書いたのは、このことでした。
ここが、この元素の一番おかしなところです。
私たちの筋肉も、髪も、DNAも、窒素が無ければ作れません。それなのに、一生のあいだ休みなく窒素を吸い続けながら、そこから1原子も取り出せない。
飢えている人が、食べ物の山の中で飢えているようなものです。
なぜでしょうか。
三つの手で、固く握り合っている
答えは、窒素が2個で組んでいる形にあります。
空気の中の窒素は、原子がばらばらに漂っているのではありません。2個ずつペアを組んでいます(N₂)。
そして、その組み方が問題でした。
941 — これまでのどれより、桁がひとつ大きい
この連載で使ってきた「結びつきの強さ」の物差しに、窒素の三重結合を置きました。丸にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
941 kJ/mol は高精度実測 78,691.09 ± 0.15 cm⁻¹(J. Chem. Phys. 160, 014304 (2024))を換算したもの。比較に使った 20・250・463 kJ/mol と体温の 2.5 kJ/mol は第1回で使った値です(体温は RT = 気体定数 × 300 K)。結合の強さは測り方によって数 kJ/mol 前後します。
炭素は4本の手を持ち、酸素は2本、水素は1本——という話を、ここまでしてきました。窒素は 3本 です。
そして N₂ では、その3本を、相手と全部つなぎ合わせています。 これを 三重結合 と呼びます。
問題は、その強さです。
941。
この連載では、結びつきの強さを kJ/mol という単位で見てきました。引きはがすのに、どれだけの力が要るか——それだけの意味です。
これまでに出てきた数字と、並べてみます。
| 何を切るか | 強さ | どこで出たか |
|---|---|---|
| 体温のゆさぶり | 2.5 | #1 |
| 水素結合(寝癖の留め金) | 約 20 | #1 |
| シスチン結合(パーマが切る) | 約 250 | #1 |
| O–H の共有結合 | 463 | #1 |
| 窒素の三重結合 | 941 | 今回 |
桁がひとつ違います。
水素結合の 47倍。パーマの薬剤がやっと切れるシスチン結合の 約4倍。水を水でなくするあの共有結合の、さらに 2倍です。
自然界にある二原子分子の中で、これは最も強い部類の結びつきです。
あなたの体は、これを開けられません。開ける道具を持っていないのです。やる気の問題ではなく、力が足りない。
「開く」とは、何をすることか
この先、「窒素の鍵を開ける」という言い方を何度もします。中身をはっきりさせておきます。
開くとは、三重結合を切ることです。 ただし、切るだけでは終わりません。
切り離された窒素原子は、放っておくとすぐに元どおり手を組み直してしまいます。 相手がいなければ、隣の窒素とまた三重結合を作るだけです。
ですから、切ったそばから、別の相手につなぎ替えなければなりません。 水素につなげば アンモニア(NH₃)、酸素につなげば硝酸のもとになります。こうなって初めて、生き物が使える形になる。
切って、その場で捕まえる。 この二つをまとめて 窒素固定 と呼びます。
難しさの理由も、ここにあります。941 を切るだけの力と、切った瞬間に受け止める仕組みの、両方が要るのです。片方だけでは足りません。
このあと見るとおり——雷は力ずくで解き、生き物は道具で解きました。
開かないから、役に立ちます
ここで話が一度ひっくり返ります。
この「絶対に開かない」という性質は、私たちがすでに毎日使っているものでもあるからです。
ポテトチップスの袋を思い出してください。
買ってきて開けると、中身がスカスカで腹が立ったことがあると思います。「空気を買わされている」と言いたくなる。実際、2014年の韓国では、怒った学生たちがポテチの袋を160個つないでボートを作り、漢江を渡ってみせたという騒動まで起きました。
ところが、あの中身は空気ではありません。
袋の中身は、空気ではありません
ポテトチップスの袋に何を詰めるか。候補を並べると、消去法で窒素しか残りません。行にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
詰めるものの候補
図の袋と分子は仕組みを示すための模式で、実際の大きさの比ではありません。窒素充填は食品包装で広く使われている方法で、油脂の酸化と、輸送時の破損の両方を防ぐ目的があります。
袋に詰まっているのは、ほぼ100%の窒素です。
なぜ窒素でなければならないのか。ほかの候補を当たってみると、答えは自然に決まります。
空気のままでは、酸素が油を酸化させます。揚げ物は数日で古くなる。
ヘリウムなら完璧に反応しません。理由は窒素とは違います。外側の電子がすでに満ちていて、差し出す手がそもそも無いのです。こういう元素を 貴ガス と呼びます。
窒素は3本の手を持っていて、それを全部使ってしまっている。ヘリウムは、はじめから手が無い。 同じ「反応しない」でも、中身が違います。
ただしヘリウムは高価すぎて、お菓子には使えません。
二酸化炭素は、油に溶けてしまいます。袋がしぼみ、味も変わる。
窒素は、安く、無害で、そして何もしません。 三重結合が固すぎて、隣にある油に見向きもしないからです。
体が使えない理由と、ポテチを守れる理由は、まったく同じでした。
ちなみに、袋がパンパンなのも意味があります。 クッションです。輸送中に潰れないよう、わざと張らせてある。あの空気だと思っていたものは、緩衝材であり、酸化防止剤でした。
ところが、組むと豹変します
ここまで「何もしない」と書いてきましたが、それは窒素どうしで組んでいるあいだの話です。
いったんほかの元素と手を組むと、窒素は強烈な個性を出しはじめます。
分かりやすいのがにおいです。水素と組めば アンモニア(NH₃)——あのツンとくる刺激臭になります。
そして、もっと極端な例があります。
同じ分子が、濃さだけで別のにおいになります
インドールという窒素化合物。印にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
濃度としきい値は香料業界で広く報告されている値によります(1% 超で糞便様、0.01〜0.1% で白い花の香り、ジャスミンアブソリュートで揮発成分の 2〜5%)。感じ方には個人差があり、境目はきっちりした線ではありません。「濃いと広い範囲の嗅覚受容体が反応する」という説明は有力なものですが、におい受容の仕組みには未解明の部分が残ります。
インドールという窒素化合物です。
この分子は、濃さによって、まったく違うにおいに感じられます。
1%より濃いと——はっきりと、大便のにおいです。実際、あの臭気の主役のひとつがこれです。
0.01〜0.1% まで薄めると——ジャスミンや白い花の香りになります。高級香水に欠かせない成分で、ジャスミンの精油には、揮発する成分の 2〜5% がインドールとして含まれています。
同じ分子です。
なぜこんなことが起きるのか。濃いと、鼻の中のより広い範囲の受容体にくっついてしまうからだと考えられています。薄いときは一部の受容体だけが反応し、濃くなると別の受容体まで巻きこまれる。受け取る側の反応が変わっているわけです。
香水を作る人たちは、これを知ったうえで使っています。「最悪の悪臭」と「最高の芳香」を分けているのは、物質ではなく量でした。
誰が、鍵を開けるのか
さて、本題に戻ります。
941 の三重結合を、いったい誰が開けるのか。
生き物は窒素なしでは生きられません。誰かが開けてくれなければ、地球上に生命はありません。
941 の鍵を、誰が開けているのか
1 年あたりに開かれる窒素の量です。棒はすべて同じ物差し。行にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
1 年に開かれる窒素の量(100 万トン単位)
年あたりの固定量(Tg N=100 万トン):雷 3〜5、生物的固定 100〜175、ハーバー・ボッシュ法 100〜120。いずれも推定に幅があるので、棒の右端をぼかしてあります(#3 酸素の収支図と同じ描き方です)。割合は分母の取り方で変わります——自然に開かれる分(雷+生き物)を分母にすると 2〜5%、人工固定まで含めた総量を分母にすると 1〜2% です。本文は前者を使っています。生物的固定の推定は文献差が大きく、陸域だけで 60〜90 Tg N/年 とする報告もあります。
自然界でこれができるのは、大きく 2通り でした。
ひとつは、雷です。
稲妻の温度は 約3万度。太陽の表面(約6千度)より、はるかに熱い。この瞬間的な高温と電気が、三重結合を無理やり引き裂きます。砕かれた窒素は空気中で酸化され、雨に溶けて土に落ちる。
もうひとつは、生き物です。
いちばん有名なのは 根粒菌 でしょう。マメ科の植物の根に住みつく細菌で、豆を引き抜けば、根に小さな粒がびっしり付いているのが見えます。この中で、彼らは常温・常圧で三重結合を開いています。
人類が高温高圧の巨大な工場でやっていることを、土の中で、静かに、涼しい顔でやってのける。
ただし、担い手は根粒菌だけではありません。土の中で単独で暮らす細菌も、海に漂う藍藻(シアノバクテリア)も、同じことをしています。 名前が知られていないだけで、量では負けていません。
ここで、正直に数字を出しておきます。
雷が地球全体で開ける窒素は、年に 3〜5 百万トンほど。 生き物が開ける量は、年に 1億〜1億7500万トン。
自然に開かれる窒素のうち、雷の分は 数% にすぎません。
そして——雷と生き物を合わせても、80億人を食べさせるには足りませんでした。
鳥の糞が、資源になりました
ここから先は、化学ではなく世界史の話になります。
火薬にも肥料にも、窒素の化合物——硝石が要ります。ところが空気からは取れません。大量に手に入れるには、地面から掘るしかなかった。
そして、それが積もっている場所が 2つ ありました。別々の場所に、別々のものが。
ひとつめは、ペルー沖の島です。
チンチャ諸島をはじめとする島々に、海鳥の糞が、何千年ものあいだ分解されずに積もっていました。 雨がほとんど降らないので、流されずに残ったのです。これを グアノ と呼びます。
1840年代、この糞が「最高の肥料であり、火薬の原料でもある」と分かります。
そこからが、すさまじい。
アメリカは、法律を作りました。
グアノ諸島法(1856年8月18日成立)。無人でどこの国のものでもないグアノの島は、アメリカ市民が合衆国の領土として主張してよい、という法律です。100を超える島が申し立てられ、いくつかは現在もアメリカ領のまま残っています。
そして、砂漠の塩で戦争になりました
ふたつめは、アタカマ砂漠です。
こちらは糞ではありません。カリーチと呼ばれる、硝酸ナトリウムを含んだ鉱床です。チリ硝石とも呼ばれます。
成因も違いました。海から飛んでくる塩や、大気の中で作られた硝酸が、極端な乾燥のなかで、一度も流されずに積もり続けたもの。天然の硝石が大量に採れる場所は、地球上でここだけになりました。
そして——ここで戦争が起きます。
1879年から1883年、チリ対ペルー+ボリビア。 直接のきっかけは、ボリビアがアントファガスタで操業していたチリ系の硝石会社に輸出税をかけたことでした。
この戦争には別名があります。
硝石戦争(Saltpeter War)。
争われたのは、グアノではなく硝石でした。 名前が、そう言っています。
チリが勝ち、ペルーのタラパカ州と、ボリビアの海岸州を手に入れます。
ボリビアは、この戦争で海を失いました。
いまも内陸国のままです。(ペルーとの講和は1883年、ボリビアとの正式な割譲は1904年の条約でした。)地図を開けば、その結果がまだそこにあります。窒素を手に入れるための争いが、国境を永久に書き換えたわけです。
空気から、パンを作った男
ドイツには、硝石が出ませんでした。
肥料も火薬も輸入に頼るしかない。海を封鎖されれば、畑も軍隊も止まります。
20世紀の初め、この壁に挑んだのが化学者 フリッツ・ハーバー でした。
彼が狙ったのは、空気です。
窒素なら、頭の上に無限にあります。問題は、あの 941 をどうやって開けるか。雷は3万度でこじ開けました。工場で3万度は出せません。
ハーバーが見つけた答えは、鉄の触媒でした。高温・高圧の中で、鉄が三重結合を開く手助けをする。 これを カール・ボッシュ が工場の規模まで持ち上げます。
糞 → 戦争 → 空気
窒素を手に入れるために、人類がたどった百年です。各行にカーソルを合わせる(スマホはタップ)と説明が出ます。
2つの資源が、見つかる
グアノ=ペルー沖のチンチャ諸島などに積もった海鳥の糞。カリーチ(チリ硝石)=アタカマ砂漠の鉱床で、こちらは糞ではなく、海塩や大気で生じた硝酸が1000万年規模の乾燥のもとで積もったものです。別の場所の、別のものでした。
アメリカが、法律を作る
グアノ諸島法(8月18日成立)。無人でどこの国のものでもないグアノの島は、アメリカ市民が合衆国領として主張してよいという法律です。100 を超える島が申し立てられ、いくつかは現在もアメリカ領です。
硝石戦争
チリ対ペルー+ボリビア。きっかけはボリビアがチリ系の硝石会社にかけた輸出税でした。争われたのはグアノではなくカリーチで、名前がそう言っています(Saltpeter War)。ボリビアは海岸州を失って内陸国になりました(正式な割譲は1904年の条約)。
ハーバー、空気に手をつける
ドイツには硝石が出ません。海を封鎖されれば、畑も軍隊も止まる。フリッツ・ハーバーが狙ったのは、頭の上に無限にある空気でした。答えは鉄の触媒——高温高圧の中で、鉄が三重結合を開く手助けをする。
ボッシュ、工場にする
カール・ボッシュが工場の規模まで持ち上げます。「空気からパンを作る」と呼ばれた技術です。そして同じ技術が、爆薬を無尽蔵にしました。硝石が要らないということは、火薬も輸入が要らないということです。
原理は、変わっていません
100 年以上たったいまも、当時見つかった鉄触媒を使っています。変わったのは規模だけ。人類が使うエネルギーの 1〜2% が、空気から窒素を引きはがすことに使われています。
グアノ諸島法は 1856 年 8 月 18 日成立(上院通過 7 月 24 日、下院通過 8 月 16 日)。硝石戦争(太平洋戦争)は 1879〜1883 年で、きっかけはボリビアがチリ系の硝石会社に課した輸出税で、争われたのはグアノではなくカリーチ(チリ硝石)でした。ペルーとの講和は 1883 年、ボリビア海岸州の正式な割譲は 1904 年の条約です。ハーバー・ボッシュ法はアルヴィン・ミタシュが見つけた鉄触媒を現在も使っており、原理は開発当初から根本的に変わっていません。人口の割合は Erisman et al. (2008) Nature Geoscience 1, 636–639 による推定で、「世界人口の約半分」であって「体内の窒素の約半分」ではありません。
空気と水から、肥料が作れるようになりました。
「空気からパンを作る」と呼ばれた技術です。ハーバーはノーベル化学賞を受けました。
そして——同じ技術が、爆薬を無尽蔵にしました。
硝石が要らなくなったということは、火薬も輸入が要らなくなったということです。第一次世界大戦は、この技術がなければ、はるかに早く終わっていたと言われています。
ハーバー自身も、毒ガスの開発に深く関わりました。「化学兵器の父」と呼ばれることになります。
パンと、毒ガス。同じ反応から、両方が出てきました。
そして、その方法は、いまも同じです
ここが一番おどろくところかもしれません。
ハーバー・ボッシュ法は、100年以上たったいまも、原理が根本的に変わっていません。 当時見つかった鉄の触媒を、現在の工場でも使っています。
規模だけが、桁違いになりました。
- 年間 約1億7000万トンのアンモニアが作られ、その 約8割が肥料 になります
- この反応だけで、世界の全エネルギー生産の 1〜2% を消費します
- 世界の二酸化炭素排出の 1〜3% も、ここから出ています
人類が使うエネルギーの1〜2%が、空気から窒素を引きはがすことに使われている。
941 という数字が、そのまま電気代になっているわけです。
そして、この技術がどれだけのものを支えているか。
いま地球にいる人の、およそ半分は、この反応で作られた窒素を食べて生きています。
(2000年で44%、2008年で48%という推定です。)
それでも、開けすぎました
いいことばかりではありません。
畑にまかれた窒素肥料は、すべてが作物に吸われるわけではないからです。余った分は雨で流され、川へ、海へと出ていきます。
そこで何が起きるか。藻が異常に増えます。 増えた藻が死んで分解されるとき、水中の酸素が使い果たされ、魚が住めない水域ができる。
前回、酸素は生き物が作り続けているから21%が保たれている、と書きました。窒素を入れすぎると、その釣り合いが局所的に壊れます。
開けられなかったものを開けた。そして、開けすぎた。
いまの窒素の問題は、不足ではなく過剰のほうにあります。
もう一度、稲妻の話を
最初の問いに戻ります。
本当に、雷が稲を育てていたのでしょうか。
数字を当ててみます。雷が地球全体で開ける窒素は、年に 3〜5 百万トン。これを陸地にぜんぶ配ったとしても、1ヘクタールあたり 0.3 キロほどにしかなりません。
いっぽう、水田が必要とする窒素は——1ヘクタールあたり 100 キロ前後です。
雷が届けるのは、稲が要る量の 1% にも足りません。
年ごとの雷の増減で動くのは、そのまた一部です。「雷が窒素を作って、稲を育てた」では、あの言い伝えは説明できません。
では、田んぼの人たちは間違っていたのでしょうか。
そうではありませんでした。
夏に雷がよく鳴る年は、日が照り、気温が上がり、雨も降った年です。 稲が育つ条件が、そろっていた年でもある。雷は、原因ではなく目印でした。
彼らが見ていた対応は、正しかったのです。ただ、そのあいだに引いた線が違っていた。
そして窒素のほうは——田んぼの水と土の中に、ちゃんと主役がいました。 藍藻や土の細菌が、毎年せっせと空気から窒素を取りこんでいます。目には見えません。
日本には、もうひとつ古い言い伝えがあります。
「稲は地力でとる」
窒素の話としては、こちらのほうが当たっていました。
昔の人は、三重結合も、3万度も、窒素固定という言葉も、何ひとつ知りませんでした。
それでも彼らは、空を見て、稲を見て、その2つがつながっていることに気づいた。 そして「稲の連れ合い」という名前をつけて、次の世代へ渡しました。
気づいたことは正しく、理由の見立ては外れていた。 ——科学は、たいていそこから始まります。
いま外を歩けば、田んぼがあり、その脇には N・P・K と書かれた肥料の袋が積んであります。N は窒素です。 袋の中身は、ハーバーとボッシュが空気から取り出した窒素の、直系の子孫です。
そして、いまもあなたは窒素を吸っています。8割です。そのほとんどは、何もせずに出ていきます。
次回は
第5回は、ケイ素(Si)です。
第2回で、「炭素とケイ素は同じ列にいるのに、生命になれたのは炭素だけだった」という話をしました。その、なれなかったほうの話です。
砂浜をひとすくいすれば、その半分近くがケイ素です。ガラスも、お菓子の袋に入っている乾燥剤も、あなたが持っているスマートフォンの中身も、みなこの元素でできています。
地面にいくらでもあるものが、どうやって計算する道具になったのか。 その話をします。
もっと知りたい人へ
この記事で使った数値と逸話の出どころです。
- 「稲妻」の語源:語源由来辞典;三省堂 ことばのコラム。「稲の夫(つま)」で、「つま」は男女どちらにも使う語でした
- 「雷が稲を育てる」の検算:雷が固定する窒素は年 3〜5 Tg N。陸地(1.49×10⁸ km²)にすべて配っても 0.2〜0.34 kg N/ha・年 にしかなりません。いっぽう水稲が必要とする窒素は 100 kg N/ha 前後(10a あたり 10 kg 前後)。雷が届ける量は必要量の 1% にも足りず、年ごとの増減で豊凶を説明することはできません。 言い伝えが当たっていたのは、夏の雷が「日照・気温・降水が十分だったこと」の指標になっているためと考えられています。水田の窒素供給の主役は、田面水の藍藻(シアノバクテリア)や土壌の窒素固定菌です
- 窒素の三重結合の強さ:941 kJ/mol。高精度の実測値は 78,691.09 ± 0.15 cm⁻¹(Journal of Chemical Physics 160, 014304 (2024))。結合長 1.097685 Å はNIST Chemistry WebBook による
- 比較に使った既刊の数値:水素結合 約20・シスチン結合 約250・O–H 共有結合 463 kJ/mol は第1回、体温の熱エネルギー 2.5 kJ/mol は RT(気体定数 × 300 K)
- 「窒素」という訳語:オランダ語 stikstof(stik=窒息する+stof=物質)を 宇田川榕菴 が訳したもので(1834年『遠西医方名物考補遺』、1837年『舎密開宗』)、フランス語 azote(生命が無い)の訳ではありません。stikstof 自体はドイツ語 Stickstoff 経由で azote に連なりますが、意味は途中で「生命が無い」から「窒息させる」へ移っています。酸素(zuurstof)・水素(waterstof)も同じ人が同じ流れで訳しました
- 空気の組成:窒素 78.084%・酸素 20.946%・アルゴン 0.934%・二酸化炭素 約 0.043%(乾燥空気、体積比)
- 窒素固定の量:雷は年 3〜5 Tg N、生物による固定は年 100〜175 Tg N、ハーバー・ボッシュ法は年 100〜120 Tg N(1 Tg = 100万トン)。本文の「数%」は、自然に開かれる分(雷+生物)を分母にした値で、約 2〜5% にあたります。人工固定まで含めた総量を分母にすると 1〜2% です。なお講演資料などで「雷が植物の栄養の10〜20%を供給する」とされることがありますが、この数字は上の推定と桁が合いません。また生物的固定の推定は文献差が大きく、陸域だけで 60〜90 Tg N/年 とする報告もあります
- インドールのにおい:濃度 1% を超えると糞便様、0.01〜0.1% に薄めるとジャスミンなど白い花の香りになります。ジャスミンアブソリュートでは揮発成分の 2〜5% を占めます。濃いときに、より広い範囲の嗅覚受容体が反応するためと説明されています
- グアノ諸島法:Guano Islands Act。上院通過が1856年7月24日、下院通過が8月16日、ピアース大統領の署名による成立が8月18日です。100を超える島が申し立てられ、一部は現在もアメリカ領です
- グアノと硝石は別物です:グアノは主にペルー沖のチンチャ諸島など島嶼に積もった海鳥の糞。いっぽうアタカマ砂漠の鉱床は カリーチ(チリ硝石、硝酸ナトリウムを含む) で、海塩や大気中で生じた硝酸が1000万年規模の極乾燥のもとで蓄積したものとされ、鳥の糞起源とする説明は現在は採られていません
- 硝石戦争(太平洋戦争、1879–1883):War of the Pacific。直接のきっかけは、ボリビアがアントファガスタのチリ系硝石会社に課した輸出税でした。ペルーとの講和(アンコン条約、タラパカ割譲)は1883年、ボリビアとの休戦は1884年、海岸州の正式な割譲は1904年の条約です。ボリビアは内陸国になりました
- ハーバー・ボッシュ法:The industrialization of the Haber-Bosch process(C&EN)。アルヴィン・ミタシュが見つけた鉄触媒を使い、原理は開発当初から根本的に変わっていません。年約1億7000万トンのアンモニアを生産し、世界の全エネルギー生産の1〜2%、二酸化炭素排出の1〜3%を占めます
- 合成窒素肥料に依存する人口:Erisman, J. W. et al. (2008) “How a century of ammonia synthesis changed the world” Nature Geoscience 1, 636–639。2000年で44%、2008年で48%という推定です。「世界人口の約半分」であって、「体内の窒素の約半分」ではありません
- 元素の存在度・性質全般:Emsley, J. Nature’s Building Blocks: An A-Z Guide to the Elements, Oxford University Press